2022.2.17
神戸大学大学院人文学研究科の新川拓哉講師は、埼玉医科大学の林禅之助教、カールトン大学のジョシュア・シェパード准教授、京都大学高等研究院 ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)の澤井努特定助教と共同で、ヒト脳オルガノイドがもちうる意識の問題を検討し、ヒト脳オルガノイド研究を進めるうえでの倫理的枠組みを提案しました。
本研究成果は、今後、人工知能やロボット研究など隣接分野の倫理・政策議論への展開が期待されます。
本研究成果は、2月4日に、脳神経倫理学の国際学術誌「Neuroethics」に掲載されました。
近年の幹細胞生物学の飛躍的な進展により、iPS細胞ES細胞といった多能性幹細胞を分化誘導し、生体と類似の構造をもつ三次元脳組織を試験管内で作製する技術が開発されています。このように体外で作製される三次元脳組織を「脳オルガノイド(brain organoid)」と呼びます。ヒト脳オルガノイド研究は着実に進歩しており、将来的に、成熟した人の脳にきわめて近い脳オルガノイドが作製されるかもしれません。
それにもかかわらず、ヒト脳オルガノイドを作製し、実験利用することは道徳的に許容されるのか、またこうした脳オルガノイドを用いた研究に何の倫理的な制約も必要ないのかという問いは十分に検討されていません。特に、ヒト脳オルガノイドが意識をもつ可能性を考慮すれば、こうした問いに答えることは緊急性が高いと言えるでしょう。なぜなら、快苦を感じるような脳オルガノイドを生み出し、それを単なるモノとして実験利用することは倫理的に問題だと考えられるからです。他方で、創薬・疾患研究におけるヒト脳オルガノイドの高い利用価値を考えると、ヒト脳オルガノイド研究を全面的に禁止するのも過度な規制のように思われます。
そもそも、意識は主観的現象であり、外側から直接的に観察できません。そのため、ヒト脳オルガノイドが意識を持つかどうかを争点にした場合、水掛け論になることが予想されます。こうした状況のもと、ヒト脳オルガノイドが意識をもつ可能性を考慮したうえで、ヒト脳オルガノイドを用いる研究を適切に規制するための倫理的枠組みが求められています。
本研究ではまず、ヒト脳オルガノイドが意識をもちうるかどうかを、既存の有力な意識理論の観点から検討しました。具体的には、汎心論(panpsychism)、統合情報理論(Integrated Information Theory)、一階の表象説(First-Order Representationalism)、高階の表象説(Higher-Order Representationalism)、エナクティビズム(Enactivism)、生物学的自然主義(Biological Naturalism)といった意識理論において、脳オルガノイドが意識をもつ可能性が認められるかを検討しました。汎心論や統合情報理論では、現在すでに作製されている脳オルガノイドでさえ意識をもつと認められます。他方で、生物学的自然主義、一階の表象説、高階の表象説においては、脳オルガノイドの発達度合いによって意識をもつ可能性があります。また、エナクティビズムのように、脳オルガノイドが意識をもつ可能性を原理的に認めない理論もあります。
そうした意識理論のどれが正しいかについては論争が続いており、また、新たな理論が次々と提案されています。そのため、ヒト脳オルガノイドがどの程度発達すれば意識をもちうるかという問いに対して決定的な答えはすぐに出そうにありません。したがって、ヒト脳オルガノイド研究に対してどのような倫理的枠組みが必要なのかも明らかではありません。
この状況を打破するため、本研究では、「意識についての予防原則」を採用しました。ヒト脳オルガノイドが意識をもつにもかかわらず、意識はないとみなして実験利用を行えば、その脳オルガノイドに対して多くの害が及びます。この原則は、そうした害ができるだけ生じないよう予防的に振る舞うことを要求するものです。この原則を採用することで、説得的な意識理論のうち一つでもヒト脳オルガノイドが意識をもつことを認めるものがあるなら、その可能性を重くみて、そこに意識があると仮定して倫理的な判断をすべきだということになります。
ここで重要なのは、ヒト脳オルガノイドが意識をもつと認めるだけでは、それにどの程度の倫理的配慮が必要になるのかは決まらないという点、またヒト脳オルガノイドがどのような種類の意識経験をもつのかという点です。たとえば、極めて原始的な「明るさの感覚」しかもたない存在者、心地よさや不快さといった感覚をもちうる存在者、より複雑な自己意識や記憶ももちうる存在者を比べると、必要な倫理的配慮が異なるからです。基本的には、正負の価をもつ(快苦が定義できる)意識経験をもつか、またそうした意識経験がどれくらい複雑で洗練されたものであるかに応じて、倫理的配慮もより高度になると考えられます。
以上の点を踏まえて、本研究では、ヒト脳オルガノイドがどの種の意識経験をもちうるのかを推測する手法を提案しました。具体的には、科学的な意識研究において幅広く収集されている、標準的な人間の意識経験と脳の構造的・生理学的・機能的・認知的特徴の相関データを手がかりに、脳オルガノイドの代謝量や構造や活動パターンなどから、どのような種類の意識経験を備えているかを推測しました。この方法を用いれば、現在作製されているヒト脳オルガノイド、また、将来的に作製されるヒト脳オルガノイドがどのような種類の意識経験をもちそうか推測することが可能になります。ただし、この方法は暫定的なものであるため、科学的意識研究の進歩に合わせてさらなる改良を重ねる必要があります。
上記の方法を用いて、現在作製されているヒト脳オルガノイドも、きわめて原始的ではあるが、正負の価をもつ意識経験をもつ可能性があると指摘しました。しかし、実際にそうだったとしても、ヒト脳オルガノイドを用いた実験研究を直ちに禁止すべきだとの結論は出てきません。なぜなら、ヒト脳オルガノイドを用いた創薬・疾患研究によって人間の福利が大きく向上するなら、ヒト脳オルガノイドが被る害は必要悪として正当化できるからです。そうではなく、ヒト脳オルガノイドに不要な害を与えないよう配慮しながら適切に実験研究を行うことが推奨されるのです。
本研究では、ヒト脳オルガノイド研究を適切に進めるための倫理的枠組みを提案しました。この倫理的枠組みは、以下7つの指針を含んでいます。
本研究で提案したヒト脳オルガノイド研究の倫理的枠組みを用いることで、ヒト脳オルガノイド研究の倫理性を担保しつつ、同時に創薬・疾患研究への利用を過度に規制することなく、ヒト脳オルガノイド研究を進めることができます。また、この倫理的枠組みは、人工知能やロボット研究など、「意識をもつかもしれない存在者」を生み出す可能性のある隣接分野にも展開することにより、より包括的な倫理的枠組みを構築することが期待されます。
本研究は、下記機関より支援を受けて実施されました。
タイトル | “Human Brain Organoids and Consciousness” |
著者 | Takuya Niikawa, Yoshiyuki Hayashi, Joshua Shepard, Tsutomu Sawai |
掲載誌 | Neuroethics |
DOI | 10.1007/s12152-022-09483-1 |