分娩後の胎盤から幹細胞を樹立
– 妊娠後期の合併症研究に新たな道
妊娠後期に発症することが多い、妊娠高血圧腎症や早産などの合併症は、胎盤の機能低下が原因と考えられており、毎年世界中で多くの人々に影響を与えています。これらの合併症の研究は、これまで妊娠初期の胎盤の細胞を用いて行われてきました。しかし、妊娠後期に起きるこれらの合併症を、妊娠初期の細胞で完全に再現することは困難でした。
滋賀医科大学 依馬正次 教授(兼:京都大学ヒト生物学高等研究拠点 (WPI-ASHBi) 主任研究員)、WPI-ASHBi 武藤真長 特任助教らの研究グループは、満期分娩により得られた胎盤からヒト胎盤幹細胞を分離・培養することに成功しました。この新しい幹細胞は「Ch-TS細胞」と名付けられ、妊娠初期の胎盤幹細胞と同様に、胎盤の正常な機能に不可欠なさまざまな細胞に分化することも確認できました。Ch-TS細胞により、妊娠後期に発症することが多い妊娠合併症のより深い理解、早期発見、そして新しい治療法の開発が期待されます。
本成果は、2025年7月31日に国際学術誌「Placenta」に掲載されました。
背景
胎盤は、お母さんと赤ちゃんの命をつなぐ生命線です。へその緒を介して、成長する赤ちゃんに酸素と栄養を届け、老廃物を血液から取り除きます。栄養を運んだり、お母さんの血管を作り変えたりする役割を担う栄養膜細胞が正常に働かなくなると、妊娠高血圧腎症、胎児発育不全、常位胎盤早期剥離など、深刻な妊娠合併症を引き起こす可能性があります。
これまで、妊娠合併症のメカニズムを解明するために研究が進められていましたが、妊娠中のヒト胎盤を研究することは、技術的さらに倫理的な制約があります。これらの課題を克服するため、妊娠初期の胎盤組織から取り出した幹細胞を、体外で培養・増殖させる研究モデルが用いられてきました。しかし、これまで妊娠後期の胎盤から幹細胞を樹立することは難しく、胎盤内の栄養膜幹細胞は多くが妊娠後期に消失すると考えられていたため、合併症が起こる妊娠後期の病態を正確に反映するモデルの作製は困難でした。
研究結果
研究チームは、満期分娩により得られた胎盤の絨毛膜1から栄養膜細胞2を分離し、安定化した幹細胞株「Ch-TS細胞」を樹立することに成功しました。このCh-TS細胞は、健全な胎盤機能に不可欠な2つの主要な細胞、絨毛外栄養膜細胞3と合胞体栄養膜細胞4に分化することを確認しました。これらの発見は、妊娠満期の絨毛膜における栄養膜細胞には幹細胞としての能力が保持されていることを示しています。Ch-TS細胞の遺伝子発現を解析したところ、その発現様式は初期胎盤由来の栄養膜幹細胞の様式と類似していることが確認されました。このことから、Ch-TS細胞がヒト胎盤の発達を研究するための優れたモデルとなる可能性が示されました。
将来展望
Ch-TS細胞を用いた研究が進むことで、妊娠高血圧腎症や早産といった妊娠合併症の根本的なメカニズムの理解が進むことが期待されます。特に、絨毛膜は胎児を包む膜を健全に保つ働きがあるため、前期破水のような早産誘発のメカニズム解明へ貢献できる可能性があります。さらに、分娩で得られた胎盤由来の細胞を使うことで、妊娠初期の組織を扱うことによって生じる倫理的な懸念がなくなり、妊娠合併症をより深く理解し、予防や治療のための戦略開発へ、新たな扉を開くことが期待されます。
用語解説
- 絨毛膜:胎児を包む膜の一つで、母体と胎児の間で栄養や酸素のやりとりを行い、胎盤の一部を構成する ↩︎
- 栄養膜細胞:胎盤を構成する主要な細胞 ↩︎
- 絨毛外栄養膜細胞:母親の子宮内膜に浸潤し、母体からの血液を胎盤に取り込むための血管リモデリングを行う ↩︎
- 合胞体栄養膜細胞:母体から胎児へ栄養や酸素を運搬する働きを担う ↩︎
書式情報
Hoshiyama, T., Muto, M., Matsumoto, S., Okamura, E., Jargalsaikhan, B., Murakami, T., Tsuji, S., & Ema, M. (2025). Establishment of human trophoblast stem cells from term smooth chorion. Placenta, 169, 114–122. https://doi.org/10.1016/j.placenta.2025.07.090